こじらせ女子と呼ばれる女

親友から「こじらせてる」と言われた理由。嫌な女全開で語る

鵜呑みから始まる運命の分かれ道

「こじらせ女子」と呼ばれる女、ねこです🐾

 

人生にはたくさんの分かれ道がある。

日々その分かれ道を人は選択し、進んでいく。

選択した道が正解かどうかはわからない。

わからないながらに人は分かれ道を進み、

良くも悪くも、

これが運命だった

と思える日が来るのだろうか。

 

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私には選択した道で後悔しかないことがある。

上半期を振り返ってみてどうか?

と聞かれれば、

上半期どころではなく、後悔でしかない数年間がある。

 

この悔やんでも悔やみきれない日々は父のこと。

 

私の父は今、入院している🏥

5月はあと1時間を生きれるかどうか

という生死の分かれ道状態だったが、

今は家に帰れば1か月はもたないだろう

という状態までは回復した💪

まだまだ喜べる状態ではないが、

生きるという可能性の方が低いと言われた割には

だいぶ良くなった🙌

 

この経緯に私はたくさんの後悔があるのだ。

 

数年前から父は急に介護が必要になった。

介護といっても初めはかなりの軽度。

始まりはおそらくただの骨折入院から。

それまでは病気ひとつしたことがないほど元気な人が

入院した途端にヨボヨボのおじいさんになった。

まだまだそんな歳ではない父が

退院後は誰だかわからないほどの高齢者と化した。

 

だが、私はそのことを全く知らなかった。

第一の後悔は自由きままに生活していた私。

その頃の私は多大なる父の仕送りで

何不自由もない生活をしていた。

家族にとって

歳の離れた次女である私は特別な存在だった。

自他共に認めるほど過保護なものだった。

私はその家族の優しさに甘え、

感謝という感謝のない気持ちで

1人学生の頃から家を出て自由きままに過ごしていた。

 

家族は私に心配をかけたくなかったのだろう。

父が骨折したことも、

ヨボヨボになって退院したことも、

何の報告もなく、

私は何一つ知らなかった。

 

帰ろうと思えば帰れる距離に

私は住んでいたにも関わらず、

元々私は大型連休にちょこっと実家に帰るだけ。

母と姉とは月に2.3度は外食や買い物へ。

父とは基本帰省のときにしか会わない。

そんな私に父の状態の報告はなく、私も何も聞かない。

家族とは普段と変わらない連絡取り合い📱

いつも通り父以外とは定期的に会う。

私だけいつもと変わらない生活を送っていた。

知るタイミングはあったのに、知る努力もせず、

目に見えるものだけを鵜呑みしていた。

 

私が父の状態を知ったのは

それから数ヶ月ほどした頃。

父と母が突然私に会いに来た。

会いに来たと言っても連絡がきたわけではなく、

私の職場のデスクから見える向かい側の道路に

2人が立っていたのがたまたま見えた。

そのときの父の姿に私は驚いた。

私が知っていた父とは違い、

杖をつき、痩せこけたヨボヨボのおじいさんが

母に支えられて立っていた。

母が隣にいなければ、

私は父だと気づかなかっただろう。

あのときの父の姿には本当に驚いた。

が、仕事中だった私は遠くから手を振っただけで

話に行くことはできなかった。

 

あとから連絡すると、

 

🤱パパがねこちゃんのところに行きたい

って言ったから連れてったの。

 

と母が言った。

 

うん、急に職場に来た理由はわかった。

が、あの見た目は何があった⁈

 

詳細を聞こうにもあまり話したがらない母。

亭主関白な父の手前、言いづらいのかと思い、

私は後日母を呼び出し、何があったのか聞いた。

そこで初めて私は父が骨折して入院し、

退院してからはああなったと知った。

 

骨折をしたからってあそこまでヨボヨボになるのか⁈

 

私は母を問い詰めたが、

母はそういうものだと言い切る。

今は通院でリハビリも頑張ってるし、

そのうち治るだろうと。

 

そうなのか⁈何かおかしくないか⁈

他の病院でも診てもらった方がいいのでは⁈

 

と私は母に言ったが、

 

🤱パパがそんなこと聞くハズがない‼︎

パパの希望の病院だし、

立派な大学病院だからそのまま通院するよ。

 

とのこと。

有名な大学病院がそういうならそうなのだろうと

私はまたもや鵜呑み。

一旦そのまま引き下がった。

微かにおかしいと思いながらも

 

母と姉がいるから大丈夫か‼︎

 

と、私は自分の生活に戻り、

驚いた割には正直、

あまり父のことを真剣には考えてはいなかった。

今思えばあのときから父の病気は始まっていたのに、

私は自分中心の生活と家族の優しさにかまけ、

今までと同じ生活をしていた。

 

しばらくして事態は少しずつ変化していった。

帰省はしていないものの、

母とは相変わらず会っていた。

母は何も言わなかったが、

そのとき、なんとも言えない何か違和感を感じた。

 

ここで私は初めて何かがおかしいと思った。

ヨボヨボになった父の見た目、、、

姉が会いに来なくなり、

何となく伝わる家族の違和感、、、

ある日、母を問い詰めると母は言った。

 

🤱たぶんパパ、ちょっと鬱っぽいかもしれない。

 

私はその言葉を聞いて納得した。

骨折だけではああはならない。

 

おそらく父は精神的な何か疾患を抱えている

 

私はそう思った。

 

🐱病院には行ったの?

 

🤱前から内科と外科はかかってるよ。

 

🐱いやいや、精神科‼︎

 

🤱精神科なんて行くワケないじゃない‼︎

ちょっと鬱っぽいかもしれないけど、

そんな心の病気なんかじゃないわよ‼︎

体が思うように動かなくて

一時的に気性が荒いときもあるけど

足も治ってきたし、

もっと良くなれば自然と治るわよ♪

 

母は本気でそう思っていたのだろう。

亭主関白の父とよく言えば天真爛漫の母は

私にはわからないが

昭和的なとても仲の良い関係だった。

現に父の足はだいぶ良くなり、

毎日2人でお出かけを楽しんでいたようだった。

会うたびにいつも通り、父とのデート話をする母。

 

私は母に父を病院に連れて行くように何度も言ったが

母には一向に受け入れる気配がなかった。

父のことが大好きな母には

受け入れたくない気持ちと

精神科というハードルが高く感じていたように思えた。

 

私は1度父に直接話を聞きたい

と母に帰省する旨を伝えたが、

母からは、

 

🤱パパがねこちゃんに今の姿は見せたくない

って言うから、今は帰ってきたらダメ。

 

なかなか許可が下りなかった。

父の性格を考えればそうだろうと

ここでも私は母の言うことを鵜呑みにした。

しかし鵜呑みにしながらも、

許可の下りない日々が続くと私は苛立ち始めた。

打診してみては却下の日々。

そうこうしているうちにまた月日が経った。

 

このままではいつまで経っても父には会えない

 

そう思い、私はやっと動き出した。

私は実家の鍵を持っていなかったが、

何の連絡もせずに突然実家に押しかけた。

たまたま留守のタイミングだった💧

運が悪かったようにも感じたが、

これはチャンスと思い、

恥を惜しんでご近所さんを訪ねた。

 

昔私が仲の良かったご近所さんに実家の現状を聞くと、

父の足は回復していることはわかった。

母と楽しそうに出かけていることも本当だとわかった。

だが、

やはり最近実家の様子は何かおかしい

と教えてくれた。

 

やっぱりこれは私が動くしかない

 

私は

「何かあれば私に連絡をして欲しい」

とそのご近所さんたちに連絡先を配った📱

そして

今日私がしていたことは家族には黙っていて欲しい

とお願いした。

私の家族は世間体を気にする家だ。

こんなことをしていたとバレたら

ますます状況は悪化するのが目に見えていた。

 

その後、私は何度か実家に帰省し、

やっと父に会うことができた🙌

ヨボヨボのおじいさんではなくなり、

杖も使わずに自由に歩けるようになっていた🙌

母の言っていた通りリハビリの成果は感じたが、

父の目の鋭さが引っ掛かった。

今まで私へ溺愛の眼差しだった父の目とは違っていた。

カウンセラーとしても職のある私は

父に会うたびにカウンセリングを行なってみた。

亭主関白の父と従順な家族。

ご近所さんの言う通り、

母が1度こぼしたように、

父の精神は何か疾患があるのではと私は感じた。

 

そこで私はまたこそこそと動き出した。

区役所や警察などに相談し、

何かあればどこからでも私に連絡が入るようにした。

そうこうしているうちに事態が動いた。

 

父が救急車で運ばれた🚑

 

とご近所さんと警察から連絡が入った📱

実家からの連絡は相変わらずなかった。

ショックより何より、

これは父や家族を救えるチャンスかもしれない

と、私は仕事を放り投げて急いで向かった。

知らせていない私が駆けつけたのだから

家族は驚いていたがそんなことは関係ない。

 

父はそのまま入院。

ただの軽い事故だったため

検査に異常がなければすぐに退院する

とドクターから説明があった。

 

これで退院されてはまた元の生活に戻ってしまう。

私はまたもや隠れて動き出した。

父が鬱ではないかということ、

家族はそれをわかっていない‼︎

と私はドクターへ訴えた。

そこのドクターは良い人だった。

私の話を信じてくれ、

家族にはバレないようにうまく入院を誘導してくれた。

 

母や姉は体調的に必要な入院だと受け入れてくれた。

これで父は精神的な治療を受けられる

と私は一安心した。

 

父の面会に行きたかったが、

その後も父は私に今の姿を見せたくないと。

ドクターからも

無理な面会は今はしなくてもいいのでは?

と詳細な連絡とドクターとの面談を

家族には内緒でこまめに行ってくれていたため、

私はドクターを信じ、無理に会うことはなかった。

 

しばらくして治療が終わり、

父は退院することになった。

父の顔は穏やかになり、

病院内で友達もでき、明るくなったらしい。

by母&ドクター

 

ただ入院前と変わったところは、

身の回りの動作が少ししづらそう

とのこと。

介護というほどのレベルではないが、

バリアフリーでない実家では

少し付き添った方がいいかも

ということだった。

 

それくらいなら退院後はもちろん実家に帰るものだと

父も家族も思っていた。

が、私は断固反対した。陰で。

付き添い云々は別にして、

本当に精神的な疾患が完治したかどうか、

1度施設的なもので判断した方がいいのでは

とドクターへ打診した。

ドクターは私の気持ちを汲み取り、

このときもうまく家族を説得し始めてくれた。

 

そんなとき、

本来の父らしいと思うことがあった。

(治ったのだと感じたのは)

父が自ら介護施設を希望したことだった。

 

自分の介護で家族に迷惑をかけるなら、

俺は施設で悠々自適に暮らす‼︎

それくらいの金はあるから心配しないでくれ‼︎

 

と、母や姉の帰ってきて欲しい気持ちを

相変わらずの亭主関白さで一掃し、

父は自ら介護施設を希望し退院した。

 

退院した父に私はすぐには会いに行かなかった。

相変わらず父は

今の姿を私には見せたくない

と言っていたから。

退院後も父は定期的に病院に通院していた。

ドクターからも連絡を受けていた。

この状況なら無理に会いに行く必要もないか

と鵜呑みしたのだ。

 

退院後、母は毎日施設にいる父に会いに行っていた。

そして2人でデートをしていたようだった💕

元々は海外で仕事をしていた父。

そのときに比べれば、

家は別々になったが毎日会える環境は

2人にとって楽しい日々が戻ったように見えていた。

 

こうして私は自分の目で確かめることなく、

聞いた状況と母の姿、

そして施設に入ると言った父らしい行動が

回復していると鵜呑みしていた。

そしてこのときの私は

これで全てが丸く収まったと思っていた。

私の後悔はこの数年前から始まっている。

 

今週のお題「2020年上半期」